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2007年11月17日 (土)

Workshop昔話 #2

日,ベーシストの友人,H氏が,このブログ内のArtistic jazz workshopの昔話がおもしろかったと(口頭で)コメントしてくれましたので,もう少し付け足しましょう.

昭和50年代前半(1970年代後半)に宇都宮にあったジャズ喫茶“グルービー Groovy ”は,現ベーシスト兼ピアニストでタクシードライバーをやりながらLittle Dukeを主宰する直井氏が経営していました.当時はグルービー経営者兼ピアニストでした.直井氏の夜は毎晩ピアノの演奏で,演奏が終わった後,閉店時にやってくる以外は,開店準備からの営業を私たち学生アルバイトに任せていました.開店準備と言っても,確か,おつまみの柿ピーとチーズをビルの1階にあった八百屋で補充し,コーヒーを淹れ,配達される氷をアイスボックスに入れると言う程度のものでした.

グルービーはいわゆる“ジャズ喫茶”で,平日はレコードを大音響でかけ,週末にライブをやるという営業内容でした.入り口ドアは,レッドガーランドの有名なアルバムGroovyのジャケットのデザインで,ドアを開けると右側にガラス張りのレコード室がありました.何枚あったのか覚えていませんが,レコード棚は高さ2.5m,幅2.5m程度だったでしょうか.有名どこは一通り揃っていました.直井氏は,スイングジャーナルを参考にして,毎月,発売されるレコードを購入していましたが,レコードを売りにするジャズ喫茶としては,レコード枚数は多い方ではなかったかもしれません.

同時代の宇都宮には,ジャズ喫茶“マニア”があり,こちらは圧倒的なレコード数を誇っていました.マニアは現在,休眠中ですが,このレコード群は,社長の倉庫に眠っているものと思われます.

グルービーのレコード室にはプレーヤが2台あり,これを交互に使って,レコードをかけていました.スピーカーは,オーディオファンなら誰でも知っているアルテックA7でした.これはどうやら映画館などで使われるものらしく,私の印象では,音の厚みや低音から高音までのバランスは良く,安定感のある音でしたが,高音の延びや立ち上がり,繊細さ,リアリティーと言う面ではジャズファンが好きなJBLには勝らなかった様な気がします.

店にはトイレ以外,一つも窓がありませんでしたが,実はカウンター裏側の板を外すとそこには窓があったのです.この板には,極小さな節穴が一つあり,西日の時刻になると,ここから真っ暗な店内に一筋の光が通っていました.Sumoftheparts

客足が途絶える夏の日没の頃,カウンター裏の窓を開けると,熱く濁った空気の中にオレンジ色の夕日が沈んでゆきました.この風景には,ベーシストRally Ridley のSum of the parts というアルバムのB面1曲目のFeelin' Blueがよく似合いました.

このアルバムはソニーフォーチュン(ss) Sonny Fortune やコーネルデュプリー(p) Cornell DuPreeが参加したフュージョンで,いまでも,夏のけだるい夕暮れ時には,ソニーフォーチュンが奏でるシンプルで美しいメロディーが私の口をついて出ます.B面1曲目のFeelin' Blueはしっとりした感じの美しいメロディーの16ビートの曲です.2曲目はちょっとおどけた感じのポップな曲でIndian avenue,3曲目はリドリーのベースソロでIn a sentimental mood,最後は再び美しメローデーのNever can say goodbyeと続き,最後まで聴いても雰囲気が持続します.

余談ですが,このころ,LPレコードは片面ずつ聴くもので,20から25分程度でした.CDは聴き始めると奏時が70分も続き,LPレコードで育った私には集中力が持続しません.

さて,このLPレコード Rally Ridley のSum of the parts は,グルービー閉店時に私が買い取りましたが,何年か前に,CD化され店頭に並んでいるのを見た私は,躊躇無く購入しました.

直井氏が経営するグルービーは,経営状態が徐々に悪化しました.社会の流れとして,大音響でレコードをかけるジャズ喫茶が人々に求められなくなっていた時代かもしれません.

グルービーは泉町どおりの入り口付近にあり,通りをしばらく西に上ると近代人がありました.
そのころのグルービーのライブは週1回で,直井邦夫(p), 豊田(b) 小牧和三(ds)のトリオが基本ユニットでした.豊田さんはその後亡くなりましたが,直井氏と小牧氏は今も宇都宮で活躍中です.高内春彦(g)さんはちょうど大学卒業の頃で,東京と宇都宮を往復し,宇都宮ではいつもグルービーに居ました.彼は,某美大卒業で,教員採用試験合格を辞退して音楽の道を志していました.彼は油絵をやっていて,確かサインが“HAL”だった気がします.余談ですが,映画“2001年宇宙の旅”のコンピュータの名前がやはり“HAL”でした.グルービーの営業終了後はワークショップのメンバーも練習の相手役をおおせつかっていました.サックスの竹野君も,高校生の身分にもかかわらず姿を見せていました.

その頃ヒットした角川映画,“人間の証明”?か“野生の証明”?から”Never give up”というフレーズが流行っていて,直井さんはそのロゴを店内に貼っていました.その一方で,どうやら目に見える営業努力もなく,経営状態は益々悪化していったようです.もっとも,この辺りの真相は,我々学生アルバイトには分かりません.

グルービーで高内さんが主催していたジャズギター教室の生徒の一人に,吉田三雄さんが居ました.グルービーの経営がいよいよ行き詰まり,売りに出され,これを吉田さんが購入し,グルービーの看板を引き継ぐことになりました.吉田さんが泉町でグルービーをどれくらいの期間営業したか明確に覚えていませんが,おそらく営業が徐々に上向き,吉田さんはその後,営業拠点をオリオン通りに移し,“名前の無い店”,“(新)グルービー”と展開します.我がワークショップもグルービーの展開に翻弄され,練習場兼溜まり場を失い,新たな展開の必要が生じました.

つづく

このころの写真がないのが残念です.見つけたら追って貼付しましょう.約30年前の出来事なので,私の勘違い等が多いかもしれません.お気づきの方はコメントやメールなどお送りください.

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